歴史

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1&D STORY vol.6 「もう一つの脚」 外食事業への進出 〜1990代〜

売上100億円を突破したダイリキ。店舗も着実に増えつつあったが、健次は現状維持を良しとしなかった。もう一つの脚を創り、両脚で立たねば―外食事業進出の頃についてお伝えします。

ダイリキならではの焼肉店を誕生

平成4(1992)年、売上高100億円を突破したが、健次は現状に留まらず、さらに「先」を見ていた。「会社を安定・成長させていくためには、小売という一本の脚だけではなく、両脚で立つことが重要。小売以外の新たな事業を作り上げていかなければならない」

そこで外食事業、中でも焼肉業態に着目した。健次は「手頃な価格」を考え方の柱として業態開発を推し進めた。
当時、焼肉店といえば、客単価が5,000~8,000円と高く、また男性客中心というのが一般的だった。そこでこう考えた。「これまで自分は『肉を毎日のおかずとしてお腹いっぱいに食べてもらいたい』という思いを持って手頃な価格帯で提供してきた。外食でもその思いは変えたくない――」

「価格競争」と銘打って、人気居酒屋店の価格を徹底的に調査。その結果、客単価を破格とも言える2,500円に設定した。
また、無煙ロースターの採用や内装も居酒屋風に装飾し、女性客の取り込みも図った。まさに、お客様の潜在的なニーズとダイリキの強みをうまく生かすことを形にしたのである。
そして、平成5(1993)年3月31日、『炙屋曽根崎店』を大阪にオープンさせた。肉屋発祥の焼肉屋ということで、カット技術を駆使した、鮮度の良い肉が気軽に食べられるとあって、瞬く間に評判となった。
この外食事業こそが、ワン・ダイニングの源流となったのである。

①② 外食事業の第一号店の「炙屋曽根崎店」 ③④ 第二号店の「炙屋阪急東通り店」
『大店法』改正により、出店戦略を見直す。

同年。ダイリキは企業として二つの決断をした。一つは「ダイリキ食品株式会社」から「ダイリキ株式会社」へと社名変更。外食を始めたことで「食」全般を扱う企業としての思いを込めた。

そしてもう一つは、本社の移転。創業の地・庄内を離れる決断をした。これまで以上に企業として更にレベルアップしていくためには人材の確保が不可欠であり、人が集まる大阪市内への移転を考えた。
社内では反対もあったが、健次はこう説いた。「ダイリキは『人』が全てだ。会社をより成長させていくためには、もっと人を入れていくことが大切だ」
こうして庄内を離れ、大阪市西区京町堀のビルに本社を移転させ、平成11(1999)年には、現在の西区新町に自社ビルを構えることになった。

出店戦略転換の成功〜エリア拡大

小売事業では出店戦略の転換により、スクラップ・アンド・ビルド、つまり商店街の店舗を閉め、量販店への出店を一層加速させていた。

大店法改正により、全国で商店街は衰退し、量販店の勢いがました。健次の、時代を読み取る眼力が会社を大きく成長させてきたと言える。

また、量販店の増加に伴い、関西地区の出店だけではなく、新たなエリアへの進出が始まったのもこの頃だ。平成5(1993)年、名古屋市に、中京地区初出店を果たした。また、平成12(2000)年には、中・四国地区への出店も実現し、出店範囲が関西以外にまで広がっていった。
「必要とされ続けること、それがすなわち『価値』」という健次の経営哲学が数字にも裏付けられたのである。
外食事業の誕生と小売事業の発展。

50年の歩み