健次が起した焼肉商材販売の事業は順調に売上を伸ばしていった。昭和46(1971)年のことだ。
そんなある時、健次はヨーロッパを訪れた。約二週間、五カ国を巡り、各国の歴史と文化に触れ、発見と驚きの連続だった。
その旅の最後に訪れたのがフランス・パリ。この地で健次の人生を根本から大きく変える出会いがあった。
現地の市場を見るために散策していると、白を基調としたガラス張りの大きな店舗が目の前に飛び込んできた。何を扱っている店なのかと近づいてみると、明るくて清潔感あふれる二階建ての総合食肉店だった。
店内はお客様がひしめき合い、ひと目で繁盛店であることが伺えた。(帰国後、調査すると一日の売上が約5,000万円もあった)
ショーケースには肉・ハム・ソーセージ・惣菜などがセンスよく配置されていた。牛・豚・鶏以外にも、鴨やウサギ、鳩などの珍しい種類の肉が扱われていたし、日本ではなかなかお目にかかれない希少部位もあり、豊富な品揃えを誇っていた。
「日本の肉屋と全く違うやないか……」
当時、日本の肉屋は店頭に陳列ケースを置くだけ、僅か十坪にも満たないような大きさであった。二階建ての肉屋など考えも及ばない。
そして、健次の目を最も引いたのは従業員だった。ファッショナブルな制服を着て働く従業員は八十名ほどもおり、全ての従業員から肉屋としての強いプライドとステータスの高さを感じ取った。その光景を目の当たりにし、肉を扱う者としての誇りが健次の中で一気に芽生え始めていた。
「自分のこんなセンスの良い肉屋をやっていきたい。働く人が誇れる会社を作り上げていきたい。そして、一生、この業をやっていくぞ!」
そう強く決心した健次は、帰国する機内で新たな店作りへのイメージを早速、膨らませていった。