昭和47(1972)年、健次は会社を法人化した。名前は大力食品株式会社。これは「この業で一生やっていく」という決意の表れでもあった。そして、この業界では、ほとんど前例のない、店舗のチェーン展開を積極的に推し進めて、業界のチェーン展開における先駆者となった。
『ダイリキ』の看板を掲げた店舗が京阪神間に広がり始め、昭和52(1977)年には、店舗数13店舗、売上は15億円を達成した。会社の規模や従業員数も企業として形を成す時代に入ってきた。
しかし、その頃から健次はある不安を抱いていた。それは、スーパーマーケットが精肉だけではなく、焼肉商材も扱い、強力な競合相手として台頭してきたのだ。「他が真似のできないような、次の手を考えねば……」と危機感を募らせた。そして、新たな形を確立するために、日本各地の肉屋を調査した。
その中で、目に止まったのが、牛・豚・鶏・ハムなどを一手に扱う肉屋のスタイルだった。
それを見た健次は、固定観念にとらわれない、ある斬新な発想をした。「今の肉屋は国産牛・和牛をメインに扱っているため、お客様は『牛肉は高くて、ごちそうだ』と思っているが、日頃のおかずとして利用してもらうためには、牛肉を100円前後で売る店を誕生させよう」
昭和53(1978)年、大阪・庄内の「豊南市場」前に牛・豚・鶏・ハム、そしてそれまで扱ってきた焼肉商材などを揃えた総合食肉店を立ち上げた。
五十坪もある広々とした店内は品揃えが豊富で、清潔感にあふれていた。これはパリで受けた影響が大きく反映されている